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テムル(モンゴル語:、Temür、漢字:鐵穆耳、1265年10月15日 - 1307年2月10日)は、モンゴル帝国の第6代、大元ウルスの君主としては第2代の大ハーン。『集史』などのペルシア語表記では تيمور قاآن Tīmūr Qā'ān。テムルはモンゴル語で「鉄」を意味する名前で、ペルシャ語などのティムールに通じる。 == 生涯 == 世祖クビライの次男チンキムの三男で、チンキムがコンギラト氏出身の正夫人ココジンとの間に儲けた3人の嫡子のうちの末子にあたる。父で皇太子のチンキム、祖父クビライに寵愛されていた次兄ダルマバラが相次いで早世したため、クビライの晩年にその後継者の最有力候補となった。 至元30年(1293年)、モンゴル高原に駐留して中央アジアのカイドゥの侵攻に備えていた将軍バヤンがクビライに召還されると、代わりにモンゴル高原駐留軍の司令官に任命され、皇太子の印璽を授けられた。翌年クビライが崩御すると上都でクリルタイ(王族集会)が開かれ後継者が議されたが、監国として後継者選定を主導する母ココジンや、知枢密院事として軍事権を掌握していたバヤンは一致してクビライによって皇太子に指名されていたテムルを推し、テムルが長兄カマラを抑えて大ハーンに即位した。 テムルが即位すると高原に対するカイドゥの侵攻はますます強まったため、テムルは兄の晋王カマラに加えて従兄弟の安西王アナンダを始めとする大軍を高原に送り込んだ。これにもかかわらず元軍はカイドゥの軍に敗戦を重ねたが、次第にカイドゥ勢力の行く末を見限った高原西部の王族・貴族が元に投降し始めた。これに対して焦りを深めたカイドゥは大徳5年(1301年)、配下のオゴデイ家とチャガタイ家の諸王のことごとくを動員し、全力をあげて高原に侵攻した。テムルは甥のカイシャンらを追加派遣してこれにあたり、元軍はカラコルムとタミールで行われた2度の戦いでカイドゥ軍を大いに破った。カイドゥは戦傷がもとでまもなく没し、これを機にチャガタイ家の当主ドゥアはオゴデイ家を継いだカイドゥの息子チャパルを説得してテムルに服属を申し出た。大徳9年(1305年)、テムルはドゥアとチャパルの服従を承認し、クビライ即位時の内乱以来分裂状態にあったモンゴル帝国に45年ぶりの平和統合がもたらされた。 テムルの政権では、オゴデイからクビライまで4代にわたって中国の行政に活躍したムスリム(イスラム教徒)官僚サイイド・アジャッルの孫バヤン(バアリン部の将軍バヤンとは別人)が中書平章政事に任命され、中書省に集められたムスリム財務官僚たちがバヤンを首席とする財務部局を構成してクビライの財政制度を踏襲した。テムルの後ろ盾であった将軍バヤンはテムルの即位後間もなくに亡くなったが、父チンキムの莫大な遺産を管理する母ココジンがテムルをよく支えた。 テムルは飲酒と荒淫の悪癖があったので次第に病気がちとなり、チャパルらとの和平を受け入れた頃にはほとんど病床に就いており、政務を執ることができなくなっていた。宮廷では、大徳4年(1300年)にココジンが死去してからはテムルの皇后ブルガンが勢力を持ち、テムルの代理として政務を取り仕切って権勢を振るった。 大徳5年(1301年)に、第二次日本遠征の江南軍司令官の范文虎をはじめ、将校の厲徳彪、王国佐、陸文政らの罪状を、わずかに生き残った将兵が「自分たちを見捨てて逃げ帰った」と告訴した。このことを耳にしたテムルは激怒し、皇后ブルガンとともに徹底的な調査を命じた。范文虎は妻の賈氏をはじめ、家族とともに斬首に処された。同時に厲徳彪、王国佐、陸文政の一家も皆殺しの刑に処された。 大徳11年(1307年)にテムルが崩御すると、ブルガンとその反対派の間で政変が起こることになる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「テムル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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